
2015年02月03日
「浜松がんこ祭」 -人が踊る姿のチカラと素晴らしさ-

来月、3月14日15日に、浜松市内で「浜松 がんこ祭」が行われます。
年々、規模も拡大し、今年は総勢109チーム4700人が浜松中心市街地に集合、観客動員約11万人を予定しています。
このお祭は、よさこいのお祭りですが、楽器の町浜松らしく、全国でも唯一「楽器を持って踊ること」をルールとして
最大100名の人間が一糸乱れぬ優雅で迫力ある踊りを披露し、コンテストを競うという今年で第15回、
なんと15年も続いているイベントで、全国から大学生やチビッコからオジチャンオバチャンまでが集って、賑やかに舞い踊るという
まぁニギヤカで景気のいい楽しいお祭りなのです。
で、実はこのイベント(というか「祭」ですね)、15回も続いて、街の風物詩にもなりつつあり、規模も年々大きくなっていますが
開催団体はドコか?ということはあまり知られてなく、一般の人に聞くと「え?市役所じゃないの?」とか言われたりするのです。
そりゃそうかもしれません
「浜松がんこ祭」は、10万人以上の観客が楽しんで、宿泊参加者約4700人のうち、半数以上約3000人が浜松に泊まりで(二日間開催だからいやおうナシに泊まりです)やって来て
1泊~4泊します、(大学生チームとかは、お小遣い節約の為『青春18切符』で普通電車を乗り継いで全国から浜松を目指します)市内のホテルや当然飲食も、三食×最低二日はこの祭りの為に訪れるから、浜松にとって最低6千万円から一億円くらいの経済効果になるのですが
実は、運営も企画もボランティアの団体である「浜松がんこ祭実行委員会」が行ってたりするのです。
当然、街をまきこんだ大きな催しですし、最終のコンテストは、市長をはじめ、商工会や商店界、各新聞社も審査員として登場しますし、
歩行者天国にするから地元市役所・警察や街中の関連各団体、地元自治体や市民団体も総力を挙げて協力体制をとってくれなきゃ出来ないわけです。
でもまぁ、しかし、運営母体である「実行委員会」は、ボランティアで開催されてて、どんな人がいるかというと
「数年前、偶然見たら感動したから手伝うよ!」というサラリーマンさんやOLさん、地元のオジチャンオバチャンが20名くらい!という…
月に一回打合せをしている会議を見たら、半年前の秋なんぞは参加者5人とかで(笑)「ええ、これで、やれてんの?」と驚くこと請け合いです。
(さすがに年があけて最近は会議に出てくれるボランティアさんは10名くらいになりましたが)。
しかし、僕は、こんな感じの実行委員が開催している祭でも、
「毎年のことだからね(ニコニコ)」、とか、
「手伝ってあげようか?」とか、
「浜松の為にやってるなら手伝うよ」
「いいよ!街中を盛り上げなきゃね!」
なんて、アバウトだけどココロザシがイイね!って感じで優しくゆるくサポートしてくれる浜松の街の人達と、
継続するチカラ強さで、好意により、ふんわり開催できるお祭りって本当に素敵だと思うのです。
なんかさ、いい街だよね^^
全国から参加してくれる踊り子さんは、がんこ祭の第一回が大学生により開催された事もあって
大学生のチームも多数参加してくれます。大学生にとっては卒業や就職活動を控え、一緒に踊れる最後の晴れ舞台ということもあり
みんな本当に「想い」を込めた踊りで、「コンテスト」の上位を真剣に狙い、青春の火花を散らしちゃうのです。
最終審査に残れるかどうか?が発表されると、感極まって泣き出したり悲鳴が上がったり
悔し涙や、歓喜の涙、ものすごいドラマが生まれたりします。
でも、その100チームの頂点に立つ最優秀の7チームの行う「ファイナルステージ」は、それはそれはスゴイんですよ…。
なんちゅうか、クオリティもそうだけど、人が本気で何かを目指し、一心不乱に打ち込む姿…、僕はそんな「人のひたむきさ」や「人の真摯な想い」って本当に美しいと思います。
デザインという仕事をしていて、「情熱」や「想い」を目で見れること、その目でナマで目にするコトって本当に大切だと思っています。
しかも、このお祭りの場合、「ひたむきで真摯に打ち込む人達」のしている行為、それが「踊り」であり、
目の前の観客に向けられているのです、
これってなかなか無い…ことじゃないかなと思うのです。
ちょっと考えて見て下さい、ここ数年であなたは「本気で一心不乱に情熱をかけて一斉に踊っている100名近い人達」を「目の前で」見たことありますか?
そんな機会って、普通に生きててあまり無いと思うんです。
でも、「浜松がんこ祭」では、それがある。
誰でも、3月14日15日に浜松街中に来たら無料でそれが見れるんです。
すごいことだと思うんだけどなぁ。
絶対、こんな素敵な祭、途絶えさせちゃダメだよ…、なんて僕は思っています。
偶然、踊りを見たマサのお袋(鈴木トシコ64歳)が、「ちょっと見るだけ」といって道端に座り込んで見るうちに
「いいねぇ、元気にこんな笑顔で踊る人見てると元気が出てくるねぇ…」って言って「もう少し、もう少し…」ってずっと手拍子して2時間見続けてた…なんてちょっといい話もあるくらいなんですよ(笑)
まだ見たこと無い方は、ぜひ見たほうがいいと思います。
「人の本気の姿」ってホントに素晴らしいチカラを持っているのです。
見る人のココロを動かすくらい…。
僕はそんなこんなで、カレコレ、10年ほどお手伝いさせて頂いています、
僕が、この「がんこ祭」に関わるようになったキッカケは小さな偶然でした。
少し、その話をさせて下さい。(もうこの時点で少しじゃないけど、よかったら付き合ってください)
今から11年前の2004年、僕が働いていた会社に、変わった人が突然やって来ました。
僕の部下クワヤマが対応し、なにやらカウンターでゴニョゴニョ話していたんですが話が上手くいかないらしく
責任者である僕に、クワヤマが助けを求めてきました。変わって対応した僕にその男が言ったのは
「わら半紙に印刷できませんか?」という言葉でした。
「ワラバンシってなんだ?……、ワラ、藁、藁半紙…あの茶色のボソボソした紙か…」気付くのに数秒かかりました。
「この21世紀にワラバンシ…?」、ちょっと一瞬ポカンとした僕に
その来客者は、「ワラバンシが…」とか「ワラバンシなら!」とか
訳の分からないコトを言います。
「ははぁ…、なんか変わった人だな…」と思いましたが、とりあえず話を聞くことにしました。
ソファに座らせ、お茶を飲んでもらって、ゆっくり話を聞くと、どうやら…
彼は「浜松よさこい がんこ祭」の実行委員長であること、数十人規模で行っていたイベントが
第四回で千人を越えてしまい、案内などの用紙やイベント関連の告知物を作る予算が不安であること…
今まで、コンビニのコピー機や、公民館等にある印刷機を借りて自分で行っていたけど
規模拡大に伴い、それも人手と予算が足りず大変な状況にあること…
そして考えた、印刷の予算が不安…
「ならば、子供の頃テスト用紙で見た、『ワラバンシ』なら安く出来るかもしれないッ!」と思い(イマココ)この場に来たことが分かりました。
さらに聞けば、僕と1つ違いの年齢であること、
最初は学生の仲間とやっていたイベントで楽しくやれていたけれど参加者が増えるに従い、規模や準備などが膨れ上がり、協力者が減り
今では数えるほどしか「実行委員」にいないこと。
それが、浜松よさこい初代実行委員長のノジマ君との最初の出会いでした。
僕は、本当に偶然にも、その数ヶ月前、名古屋の同業者のモリタさんの誘いで、
同じくよさこいのイベント「どまんなか祭」のボランティアスタッフを一日やったことがあり
「よさこいってスゴイなぁ…」と知っていました。
「え、浜松でもやってるの?!よさこい?」
生まれついての人の良さというか、モノズキでもあるし、同じくらいの年で頑張ってる人なら応援しなきゃ!
(僕は今でも同じ位の年の人が頑張ってると「お!負けないぞ、僕も一緒に頑張るぞう!」と勝手に気持ち的にスクラムを組んで心情的に応援しちゃうのです)
と思い、お茶をもう一杯、当時の部下のモリカミ(現マサの奥さん)に頼み、腰をすえて対応策を一緒に練り、
■ここまで大きくなったのなら、ワラバンシで経費削減!ではなく
ちゃんと協賛をもらってしっかりしたパンフとポスターを作ったほうがいい事。
■協賛を貰うなら、ホテルや食事をたくさんの人が使うし、趣旨を話して協力者を得たほうがいい事
(僕のお客さんのアイフラマツモトさんにお願いし、当時ホテル組合の責任者だった呉竹荘のヤマシタさんにお願いし
快く協賛を頂きました※今は財源も厳しいみたいで少しスケールダウンしちゃってますが(涙))
■その他、実行委員会に人手が足りないなら僕でよければ手伝うし、その当時僕の部下であったみんなも応援して仲間になるコト
などなどをその日のうちに二人で話し合いました。
そんな日が、10年くらい前にあったのです。
それから毎年、僕は三月になると、がんこ祭のボランティアスタッフとして、遠州の空っ風に吹かれてお祭の運営を手伝うようになりました。
ポスターは毎年、僕がこんな感じがいい!こんなお祭であって欲しいって願いを込めてデザインを決めるようになりました。
マサをはじめ、幸か不幸か、僕の部下になっちゃったデザイナーは「現場をその目で見なきゃダメだろやっぱ!」なんて僕の強引な誘いでボランティアスタッフとして手伝うようになりました。
僕の友人や、お人よしの同業者もみんな手伝ってくれるようになりました。
毎年3月近くになると、ポスターやパンフレットを、僕の部下が一生懸命悩みながら作る姿が事務所で見れるようになりました。
毎年パンフレットの1ページ目は、僕がコピーを書いて写真を選ぶようになりました。(毎回、思い入れが強すぎてちょっと泣きそうになりながら書くのはヒミツです)
それが10年続きました。
いろんな事がありました。
30歳だった僕は40歳を越えました。
いつの間にか僕は、お祭のハイライトである「コンテスト」の責任者をするようになりました。
いつの間にか、最後のステージの「審査」や「表彰式」の現場リーダーをするようになりました。
いい事や、悪いこと、辛いことも悔しいこともありました。
僕個人の話しだけど、離婚もしたり、再婚もしました、
当時、責任者を務めていた会社の部門を解散し、株式会社マツヤマデザインとして会社を興すことになりました。
その決断を、ウチヤマさんとマサとオークラの部屋で飲みながら心に決めたのもがんこ祭の夜でした。
いつ潰れてもおかしくないくらい、自己資金で始めた会社が一年持ったから法人化し、お世話になった方に集まっていただいて開催した
「株式会社マツヤマデザイン 法人記念パーティ」で「オメデトウね!私たちオバチャンで本当にいいの!?」と言いながら踊ってくれたのは
僕の大好きな地元おばちゃんチームの「リズム遊舞」さんでした。
こうして「がんこ祭」のコトを書いていると、本当に色々あったなぁと思います。
僕の所に「ワラバンシ!」と飛び込んで来たノジマ君が代表を退き、新しい代表ウチヤマさんに代わったり
「偶然見て、すごく感動したから写真を撮った、そのお礼だからよかったら何かに使って欲しい」とスッゴイ素敵な写真を送ってくれた男がいました。
プロカメラマンになったばかりのゼキさんでした。あまりに素敵な写真だったから、すぐ電話して、会って話したら意気投合しました、
今では一緒に九州行ったり北海道やアメリカや台湾に行ったり、全国各地に一緒に飛び回っている彼と初めて会ったのも「がんこ祭」がキッカケでした。
オサカベさんやシン君もアキちゃんやカズやナカヤマさん、最近ではジュンさんもナオミさんも…、入社したてのタオさんは強風でコンタクトを無くしながらも手伝ってくれました。
かれこれ部下を持つようになって十四年、歴代の僕の下で働いてくれていた仲間は全員がんこ祭に協力してくれました。
がんこ祭を通して、カヨやケイちゃんやマツオさん。マツケン君、ムラマツ君やイグチ君、カトー君やアニジャとか、たくさんのオモシロイ友達・仲間が出来ました。
僕は、生まれと育ちは浜松市ではありません、袋井市で生まれた人間です。
だから、浜松の街のお祭を僕がこんなに手伝うのは変かな…と最初は思っていました。
でも、こうして、株式会社マツヤマデザインとして、この街で会社を構えて、ありがたいことに商売をさせてもらってる。
なにかしらお礼を、少しでも恩返しになることをこの街にしなきゃイカンよなぁ…出来ることを、まぁやるしかないやね…と思い、ついつい続けて来ました。
でも、本当は…、こんなすっごく素敵な姿で一生懸命踊ってくれている「美しい舞台を見たい!」(しかも関係者という内側の特等席で)って気持ちが僕のココロの最深部にあるんだと思います。
だって、本当に素敵なんだよ…
人が一生懸命、踊る姿ってこんなにも美しくて、勇気をもらえるんだ…、
ただ見ている人になにかしらの「チカラ」をも与えてくれる事なんだ…。と僕は今でも感動しちゃいます。
全員ボランティアで運営してるから、実行委員も大変です。揉め事もあるし、やらなきゃいけない事もたくさんあります。
正直、10年以上やってれば、「もう辞めたいな…僕が手伝わなくても別にいいんじゃない…」と思ったことも一回だけじゃなくありました。
2012年には、開催の数日前に3.11のあの大震災があって、直前で開催を中止し、(あの判断も大変でした)大混乱になったこともありました。
2013年、代表者に誰かがならなければいけないというタイミングがやってきました。
気がついたら、僕が、今いる実行委員の中で一番古くからいる人でした。
正直、代表なんて、めんどくさそうだし、大変そうだし…会社もあるし、正直「できることなら断りたい」と思っていました。
でも、誰かがやらなきゃ、このお祭が無くなっちゃうかもしれない…と思うと断れませんでした。
少し、組織を工夫して、代表者が一人ではあまりにも大変だから、「共同代表」として数人で代表を務めることにしました。
これなら実行委員長である代表がいつでもどんな時も一人きりでドタバタしなくてもよくなります。
(お祭は同タイミングに一杯アレコレおこります「例えば、あと10分で段取りをスタッフに説明しなきゃいけないけど、
新聞社の取材の記者が来て、審査員で来てくれた市長さんに挨拶したり、舞台片付けしてくれた大学生にお礼を代表から言う為に100人が道端で待ってる時に、地元のオジサンが『責任者は誰だ!』とか言って怒っててボランティアの女の子が泣かされてます!」が「舞台に出て代表者挨拶をして下さい今!5分押してます!」とかね(笑))
昨年、タツヤさんと、タカバヤシさんと僕が三人で共同代表になりました。
今年はタツヤさんが残念ながら抜けて、タカバヤシさんと僕の二人が代表になりました。
今でも初代実行委員長のノジマ君とは友達です。彼は先日のプレイベントで元気良く活躍してました。
僕は彼の踊りが大好きです。
(僕はいつも「あんたは踊り子なんだから、舞台の上でチカラいっぱい踊りなよ!その方が向いてるよ…」と彼に言ってました(笑))だってアイツは踊るとすっごいカッコイイんだよ~!
ちなみに僕は「がんこ祭」にずっと関わってますが、一曲も踊れません。
ただ、見てるだけ。
「ふへー、カッチョイイなぁ、きれいだなぁ…わぁ!すっごーーい!」って見てるだけです。
一応代表だし、審査の関係の最高責任者だから、公平中立でなきゃイカンよなぁ…とは思っているけど思わず手拍子しちゃったり、
感動して大拍手を頭の上でパチパチしたりして周りの人にたしなめられたりしています。(別に審査の得点権は僕に無いからいいじゃないかと思うけどマズイらしい、いいじゃんねぇ)
でも、僕はそんなステージを見ることが大好きで、一生懸命踊る踊り子さんが大好きだし、この街が好きだから
今年も開催されるこのステージに関わっていれることがスゴク嬉しかったりします。
今年も、3月にがんこ祭が開催されます。
このお祭が終われば春です。
桜も咲きます。
五月になって温かくなったら山の雪も溶けて、僕の大好きな「登山」や「フライフィッシング」の本格的なシーズンがやって来ます。
僕の大好きな夏だってもうすぐです。
そうそう、この「がんこ祭」を続けようと決めた時に、僕のアタマに浮かんだ言葉があります。
子供の頃お爺ちゃんの家で見た、映画「男はつらいよ」の寅さんのセリフ。
寅さんが馬鹿にされて、怒ってケンカして実家から飛び出しちゃう前に、心配して駆け寄る妹に言うセリフです
「毎年決まって、必ず帰ってくる、あの燕(つばくろ)さえも、何かを境にパッ…タリと…帰って来なくなることもあるんだぜ…さくら」
そんな言葉をイナセに残し、背広を肩にかけて去っていった寅さんも今はいません。
僕も、大切な人やモノやコトをなくした事があります。
毎年あるって、本当にすごく大切な事なんだ。
だから大切にしなきゃいけないよな、わかるだろ?さくら。
浜松では、がんこ祭が終わると、桜が咲きます。
寒い冬は終わり、暖かな季節がやって来ます。
あと少し、あと少し頑張ればがんこ祭です。
本当に素敵なんだよ。
僕は大好きなお祭です。
全国の踊り子さん、早く来てね、気をつけて来てね、
すっごい舞台を楽しみにしている人がここにいますよ~^^
僕はワクワクしています。
第15回 がんこ祭 共同代表 松山拓也
※最新情報は 浜松がんこ祭 公式ホームページ http://www.ganko-matsuri.com/
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昨年の優勝チーム 「夜宵」さんのステージ
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